暇は人間最大の苦悩である。

今回のポイント
学問・勉強は「暇」という「苦悩」に対処するための
最良のツールである。

 

「暇で何をしたらいいかわからない…」ときは。

「なんか最近、
充実感がない…」

「暇でなにをしたら良いわからない…」

 

 

仕事や家事が一段落すると、
「暇」で何をしたらいいかわからなくなる瞬間って
ありませんか?

 

 

今回、そういうことでお困りの方向けに
記事を書いてみましたので
よければどうぞ↓

 

『〈責任〉の生成』を読んでいます

 

いま『〈責任〉の生成』という
分厚い本を読んでいます。

哲学者 國分功一郎さんと
医学者の熊谷晋一郎さんの
対談本です。

 

2月の読書会で扱う関係上
日々読み込んでいるところです。

 

429ページにわたる、
ちょっとした哲学書。

 

ですが「対談」形式で
説明が進むので
読みやすい本となっています。

 

 

 

よく日常生活の中で「責任」という言葉を
使うことが多いですが、

「では責任というのは
どこから生じるのか」

ということを
2人の研究者が自身の研究を元に
語っていく、という本になっています。

 

 

人間にとって「暇」とはどんな存在か

 

 

…中身が膨大なので端折りますが、
この本の前半に
人間にとって「暇(ヒマ)」とはどういうものか、
という部分が出てきます。

 

 

興味深い内容だったので
ちょっと紹介します↓

 

「いわゆる「非行少年」に、
「なぜ薬物を使ったのか?」と聞くと、
「暇だったから」
と答えることがあるそうです。

そうすると多くの大人はどうしても
「暇だから薬物をやるなんて!」
「とんでもない。けしからん!!」と思ってしまう。

でも、大人はしばしば、
少年が使う言葉の意味を取り違えます。

上岡さんは、「非行少年」は単に悪ぶって
そう言うのではなく、

「暇」という言葉で、
地獄のような苦しみを表現しているのだと。

そしてそこから救われようと、
いわば祈りの行為として
非行に走ったのだ、

と言われました。

いっぽう國分さん(注 本書の共同執筆者)は、
『暇と退屈の倫理学』のなかで
パスカルを引きつつ、

退屈は、人間の苦しみのなかでも
最も苦しい苦悩だと書かれていました。

「退屈」なんてたいしたことではないと
思われているが、

それがしのげるのであれば、
じつは人間はどんなことでもやるんだと。」
(124ページ 熊谷晋一郎氏の発言より)

 

クスリを使う非行少年。

クスリに手を出す理由として
「暇だから」という回答を時折するのはなぜか、
ということを
分析したシーンです。

 

何もすることがない。

あるいは
何をしていいかよくわからない。

 

こういう手持ち無沙汰な感じが
ずっと続く。

 

そうなると
人生が虚しくなります。

 

それくらいだったら
クスリに手を出してしまうというのが
人間の本能なのだ、
ということが描かれています。

 

「暇=苦悩」という発想

 

この部分では
暇を「苦悩」と考える発想が書かれていました。

 

 

この部分を読んで、
あることに気付いたのです。

 

 

学校や学問を意味する「school」の語源は
「スコラ」、つまり「暇」を意味する、とされています。

 

「スコラ」とは
古代ギリシャの頃できた言葉です。

古代ギリシャでは基本的な労働は
奴隷が行っていました。

そのため、「自由人」はやることもなく
ひたすら「暇」だったようです。

 

 

「暇」というのが「school」の
語源だというのは以前から知っていましたが、

「なぜ暇なところから
学問をする気になるのか」

ということをずっと疑問に思っていました。

 

 

 

ですが、この疑問、
「暇=苦悩」という概念を知って
ようやく晴れたように思うのです。

 

 

暇で暇で仕方ない。

暇で暇で気がおかしくなる。

 

これはかなりな「苦悩」だったのだと
思います。

 

 

この「暇」という「苦悩」を「なんとかする」ためには

「頭をメッチャクチャ使うこと」
「やってもやってもやり終えないほどの
行為を行うこと」

が求められたのでしょう。

 

結果、出てきたのが
「学問」や「勉強」だった。

 

 

このこと、
本書を読んでいて
ようやく気付いたのです。

 

 

暇という苦悩の「気晴らし」が学問の起源

 

 

「暇」という「苦悩」を何とかするための
「気晴らし」が学問の起こりだったのですね。

 

 

この「暇」という意味と「学問」という意味が
なぜ一致するのか。

 

なかなか自分の中でしっくりこなかったのですが

『〈責任〉の生成』を読んで
ようやく納得できるようになりました。

 

暇は人をおかしくさせる!

 

暇というのは
人をおかしくさせるわけです。

 

それこそ「非行少年」が
クスリを行うくらい、
「ヤバい」行為でもあります。

 

 

であれば、
正しく「暇」を活用していくことが
人間にとって大事なのかもしれませんね。

 

古代ギリシャの哲学者たちが
「暇」をなんとかするために考えたのが
学問であり勉強なわけです。

 

ある意味、「勉強」というのは
人間が「暇」という重荷を何とかするために
取り組んでいるものなのです。

 

 

…ここまで考えると、
「学問」や「勉強」というのは
「暇」という苦悩から
人間を救うために作られたのではないか。

 

 

そういうことに
『〈責任〉の生成』を読んでいて
思い至ったのです。

 

 

 

今回のポイント

 

今回のポイントです。

学問・勉強は「暇」という「苦悩」に対処するための
最良のツールである。 

 

 

「人生は80年の暇つぶし」なら。

 

私が学生時代、
大学の近くにあった書店「ヴィレッジヴァンガード」には

「人生は80年の暇つぶし」

と書かれていました。

 

「80年の暇つぶし」を
ただ「遊び」や「仕事」だけで埋めるのは
なかなか困難です。

その意味で「勉強」やら「学問」を取り組んでいると
年齢を重ねてからも
楽しく過ごせるのではないか。

ここまで考えてきて
思い至るようになりました。

 

 

勉強は「やり終わらない」からこそ意味がある!

 

勉強って、
やってもやってもやり終わることのない
行為です。

 

 

こういうと「果てしない」ことのように思いますが、
逆にいえば

「ずっと退屈しないで済む」
「退屈という苦悩を経験しないで済む」

ことだと考えれば
ちょっと勉強するのが楽しくなりますね。

 

 

思えば私、
大学生の頃よりも
受験生の頃のほうが毎日が充実していたように
感じます。

 

受験生の頃は
やってもやってもやり終えない
受験勉強がありました。

 

大学生の頃は
ある意味「自由」であり、
「自由」な時間・「暇」な時間が
たくさんありました。

 

こう書くと大学生の頃のほうが
「楽しい」感じがありますが、
実感としては
高校生の頃のほうが充実していたような気がします。

 

受験勉強はそれなりに大変でしたが、
結果的は「何をしていいかわからない」
という「暇=退屈」を
経験しないで済んだことになるからです。

 

 

「暇=退屈」を経験しないほど、
なにか取り組めるものがある。

これが結果的に
幸福感や充実感につながるのですね。

 

 

…というわけで、

「何をしていいかわからない…」

「なんか最近、
充実感がない…」

「暇でなにをしたら良いわからない…」

そんな方は
まず勉強からはじめてみるのも良いかもしれませんね!

 

 

ではまた!

 

☆國分さんの別の本『暇と退屈の倫理学』は
こちらでも解説しています↓

 

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詳細はこちら↓

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