疲れたオジサンにウケる作品の書き方
〜小説ギライのための小説入門〜
☆本内容は平成31年2月13日開催の
「札幌ワカモノ文学サロン」というイベント内で
発表した原稿をそのまま掲載したものです。
司馬遼太郎文学の魅力を
「疲れたオジサンにウケる小説」という切り口から
お伝えいたしました。
当日の音源データをこちらにご用意しております。
ぜひ聞きながらお読み下さい。(音源は50分です)
【音源データ】疲れたオジサンにウケる小説の書き方
目次
1,はじめに
私、札幌ワカモノ文学サロンというイベントを行っています。これをやっていて申し訳ないんですが、私はあんまり小説が好きじゃないんです。新書や学術書のように専門的・論理的な本を読むほうが好きなんです。
ですが、そんな私でも無理なく読める作家がいます。それが司馬遼太郎さんです。
今回は司馬遼太郎作品について紹介します。タイトルは「疲れたオジサンにウケる作品の書き方」です。私のような小説ギライの人間をも魅了する作品から、今後の執筆のヒントを見つけて頂ければ幸いです。
2,司馬遼太郎ってどんな人?
司馬遼太郎さん(1923-1996)。本名は福田定一(ふくだ・ていいち)さん。大阪出身で、講演会でも関西弁で話をしていました。
「司馬遼太郎」というペンネームは歴史家・司馬遷に「遥かに劣るもの」という意味からつけられました。
大阪外国語学校(現 大阪大学外国語学部)の蒙古語学科を学徒出陣の関係で繰り上げ卒業。そのまま入隊しています。終戦後は産経新聞社に入り、在職中に『梟の城』で直木賞を授賞。そこから職業作家としてのスタートを切りました。
3,小説を書く姿勢
学徒出陣をして迎えた日本の敗戦。この時司馬は23歳でした。
「なんで日本は負けたのか」という問題意識がずっとあったと聞きます。このテーマをずっと考え続け、その答えを小説の形で書いていったのです。
ダイレクトに答えている『坂の上の雲』以外にも、この問題意識は彼の作品のあちこちに散見されます。
そんな司馬は「23歳の自分に手紙を送るように小説を書く」のを意識していました。敗戦のショックで何を信じて良いかもわからなかった「23歳の自分」に、メッセージを伝えるために小説を書き続けてきたのです。
4,フジモトの小説嫌いが治った理由
私、以前からあまり小説が好きではありませんでした。ですが、司馬遼太郎さんの作品をきっかけに、小説が好きになったのです。
それまでの私のイメージする「小説」って、「甘酸っぱい恋愛」ばかりが扱われているように感じたんですね。あるいは「孤独な自己」を描いてばっかりいるように感じたんです。何を読んでもこういう印象を受けるので、正直「小説」ってちっとも面白くなかったんです。
それに、恋愛小説って「オジサン」から見ると、「もうそんな歳じゃないよね」と思ってしまうのですね(日経新聞に連載された『失楽園』がブームになったのは、まさに「そんな歳じゃない」人を対象にした恋愛小説だったからです)。
ちなみにこの視点、私だけではなく小林秀雄さんも指摘しているんです。
講演テープの中で小林さんは「純文学」や「私小説」批判を行っています。〈恋だ、愛だと言ってるだけが文学ではない〉〈もっとこの世の現実を提起するのが文学だ〉などと、こういう指摘の仕方です。
小林秀雄さんは日本の小説があまりに「私小説」寄りになってしまったことに危機感を抱いていたのです。
司馬遼太郎さんの作品には、あんまり恋愛描写は出てきません。『燃えよ剣』では土方歳三とヒロインとの関わりも出てきますが、概して「妻より仕事を選ぶ夫」というスタイルは変わりません。ある意味、恋愛に対し「もうそんな歳じゃないよね」というオジサンにウケる書き方をしているわけなのです。
5,なぜ司馬遼太郎は「疲れたオジサン」にウケるか?
先程、司馬遼太郎さんの作品にあまり恋愛描写が出てこないことを指摘しました。これこそまさに「オジサン視点」で書かれた作品であると言えます。それ以外にも、「疲れたオジサン」にウケそうな要素を挙げていきます。
(1)組織社会をテーマに置いている
司馬遼太郎さんは、単純な「個人」だけを描くことはしません。『竜馬がゆく』では坂本龍馬だけでなく、その他の登場人物の心理描写も細かいです。『燃えよ剣』でも、土方歳三のカッコよさだけでなく、悲劇に進む近藤勇の心中も描いています。
いずれも、個人だけでない「組織」を描いていることにポイントがあります。坂本龍馬の活躍の裏には、彼を縛る「藩組織」というものがあります。組織の中で自由に振る舞えない葛藤が『竜馬がゆく』の裏テーマなのです。
考えてみると、これは「疲れたオジサン」のいる会社組織と全く同じです。組織の中で生きる辛さを、土佐藩時代の龍馬に見るのです。そして「いつかオレも竜馬のようになりたい」と脱藩(独立)する希望を『竜馬がゆく』のなかで夢見るのです。
(2)教訓が得られる
司馬遼太郎作品には「教訓」が散りばめられています。というより、教訓の間にストーリーがある、といった調子です。小説を読んでいるなかで、司馬遼太郎さんの処世訓なり人生観なりが語られていきます。
つまり、司馬遼太郎作品は教訓が得られる自己啓発書としても読めてしまうのです。これはまさに仕事や家庭のことで悩むオジサンの精神安定剤としても機能しているわけです。
(3)「知っていること」が多く、安心できる
仕事で忙しいと、なかなか小説世界になかなか入り込めなくなります。歳を取るとSF作品やファンタジー小説を読むのが難しくなるのは、小説に入り込めるほどの心のゆとりが無くなるからかも知れません。
日々仕事に追われ、つかの間の趣味は電車内か寝る前の布団での読書。そんな「疲れたオジサン」にとって、フィクションの世界に入り込むのはちょっと困難です。想像力も貧困になっており、入り込むのが難しくなるからです。
でも、「織田信長」や「豊臣秀吉」「坂本龍馬」の世界なら、「想像可能」です。経営者に歴史好きも多いので、部長や社長から飲みの席で歴史の話もよく振られます。すると、司馬遼太郎さんの作品なら「想像可能」ゆえに入り込めるのですね。
6,フジモトが考える、司馬遼太郎文学の特徴
5に引き続き、司馬遼太郎さんの作品について見ていきましょう。私が考える司馬遼太郎文学の特徴は3つあります。
(1)「余談」が多い
作品を見てまず気づくのは、「これは余談であるが…」という指摘の多さです。「またか」と思うくらいしょっちゅう出てきます。
おまけに、司馬遼太郎さんは連載小説の形で多くの作品を遺していますので、連載当時の様子が描かれています。
「この稿を書くに当たり、○○県の○○氏からこんなご指摘を頂いた」
こういう付け足しも作品内にどんどん入ってきます。幕末期の小説であるのに、連載当時(昭和期)の話もどんどん入ってくるのです。作品だけで完結せず、連載当時の時代ともリンクするというのが司馬遼太郎さんの特徴でしょう。
(2)事実描写が異常に多い(本当に小説?)
日露戦争を扱った作品『坂の上の雲』。いまだに日露戦争を知る上で必読書に数えられています。司馬遼太郎さんの歴史観(司馬史観)を知る上でも必読書とされています。
ですが、この『坂の上の雲』を興味半分に読んで挫折する人は多いです。文集文庫版で全8巻。読んでもよんでもストーリーが進展しません。
それもそのはず、日本視点だけでなくロシア視点でも作品を書いているからです。ちょっと話が進んだと思えば脇道に入り、戦争終結までに相当なページが割かれています。
『坂の上の雲』執筆時の司馬遼太郎は、出来る限り史実を忠実に書くことに精魂を傾けていました。ですから、ストーリーよりも当時の「潜水艦の様子」なり「日本海軍の構成メンバー」なりの説明に紙幅が割かれます。ちっともストーリーが進みません。
一説によれば、あれだけ作品を書き、多くのファンのいる司馬遼太郎でさえ、作品自体は「赤字」のようです。入ってくる印税よりも資料代のほうが高くついていたのだそうです。
それだけ膨大な資料を読み解いていました。現代の資料はもちろん、古文書や外国資料も渉猟しています。時には真夜中にロシア語の専門家に電話をして『坂の上の雲』執筆時の疑問を解消した、とのこと(迷惑な話です)。
まとめると、要するに限りなくドキュメンタリーに近い歴史小説を書いたのが司馬遼太郎さんの作品なのだと言えるはずです。
(3)作者の決めつけがオーバー
司馬遼太郎作品には、結構な頻度で「作者」が顔を出します。作者は客観的な語り手なのではなく、司馬遼太郎の意見が作品に盛り込まれるのです。
「坂本がいなければ○○はできなかっただろう」
「○○は当時日本における最高の知識人の一人である」
こんな描写がちょくちょく入ってきます。「ホントかな?」と思ってしまう意見も多いのです。でも、読んでいるとだんだん司馬遼太郎さんの見方が読者にインプットされていきます。
良くも悪くも司馬史観といわれるゆえんは、作品に「作者」がしょっちゅう顔を出す所にも理由があるのでしょう。
7,まとめ
いかがでしたでしょうか? 司馬遼太郎のポイントは「小説なんて読まない」という「疲れたオジサン」にウケそうな書き方をしているところにあるといえるでしょう。
「疲れたオジサン」は「時間はないけど、小金はある」人たちです。「疲れたオジサン」に向けて書いているからこそ、司馬遼太郎ファンは一定年齢以上の人に多いと言えるのです。
これ、経営学的にはマーケティングの成功例だと言えるでしょう。自分が書きたいものを書く、という姿勢は「プロダクトアウト」といいます。一方、売るお客像を明確にしてから作品を書くことを「マーケットイン」といいます。司馬遼太郎さんは結果的に「マーケットイン」で作品を書いたからこそ「国民作家」になることができたのだと考えます。
その逆で書いたのは村上春樹さんでしょう。村上春樹さんは「僕」の視点から物事を書いています。恋愛描写もバンバン出します。「孤独な自己」も描きます。作者は顔を出してこず、基本的には客観的な語り手です。
…完全に司馬遼太郎さんの「逆」のような気がします。こちらのほうがおそらくは「小説」に近いのでしょうが、私のようにニガテ意識を持つ人も多い作品と言えるかも知れません。
思うんですけど、小説ってもっと自由でいいと思うんです。どうしても小説を書く人って「純文学」的な恋愛・自己論を多く扱いすぎているように感じます。小説ギライな「疲れたオジサン」に向けた作品、もっと多くて良いのかも知れないな、と思うのです。
ちなみに司馬遼太郎さんに近いのは城山三郎さんの作品です。城山三郎さんは「経済小説」という新ジャンルを作っています。大原美術館を作った大原孫三郎を描いた『わしの眼は十年先が見える』などはその定番でしょう。
司馬遼太郎さんのような歴史小説も数多く遺しています。戦時下の首相・浜口雄幸や広田弘毅を扱った『男子の本懐』や『落日燃ゆ』はその1つです。
いずれも、普段小説なんて読まない「疲れたオジサン」が競うようにして読んだと言われています。
疲れたオジサンに向けた小説。もっとあっても良いのではないでしょうか?
付録 時代小説と歴史小説の違い
時代小説は歴史の一時期を舞台に自由に創作がなされるという小説です。池波正太郎の『剣客商売』や野村胡堂の『銭形平次捕物控』などはこの例です。
一方、歴史小説というのは実在の人物をモデルにし、(比較的)史実に基づく形で書かれた小説です。司馬遼太郎の『燃えよ剣』などはけっこう空想も入っているでしょうが、基本的には「歴史小説」になります。
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