自分の考えを深めるベストな方法!それは日記を書くこと!オーウェルの『1984年』を読んで考えました

今日のポイント
自分の考えを深めるため、
少しずつでも「書く」機会、
増やしませんか?
書きたいときだけ日記を書くのも
おすすめです! 

 

いま私、
『1984年』という小説を
読んでいます。

 

前から読もう読もうと思っていて
「そのまま」になっていた1冊です。

 

『1984年』はジョージ・オーウェルが
1948年に書いた小説です。

1948年の下2ケタを逆にした
1984年のロンドンが舞台となっています。

 

 

『1984年』、
人々は権力者によって
常に監視される社会となっています。

あちこちに監視装置が付き、
国民の動きを「ビッグ・ブラザー」が
監視していく。

 

そうやって国民を支配しているのです。

 

言論の自由もなく、
ただ支配者の言いなりになる人々の様子が
淡々と語られていきます。

 

 

『1984年』は
ざっとこんなストーリーです。

 

 

あなたも聞いたこと、あるかもしれませんね!

 

 

村上春樹の最近の小説
『1Q84』も、
もともとは『1984年』をヒントしていることは
有名ですしね。

 

『1984年』の世界は
権力者が国民の自由を奪い、
国民を管理している世界でした。

 

実はこれって、
現在の世界と同じなのです。

 

 

ちょっと外を歩いてみても、
防犯カメラは街中に設置されています。

 

中国では特に徹底していて、
監視カメラに写っている人物を
たった30秒ほどで特定できてしまうそうです。

 

犯罪が減る反面、
国家がそこまで人々を監視できるということに
ちょっとした恐怖を感じます。

 

 

いまの世界では、
Facebookでのやりとりは全てデータとして
集積されていきます。

メールや電話、SNSの会話も
必要とあれば警察は
中身を監視できています。

 

まさに、オーウェルの書いた
『1984年』そのままの世界となっています。

 

 

再び、話を『1984年』に戻します。

 

『1984年』の世界では
「何が真実か」ということすら、
政府が管理しています。

「真理省」という省庁が
何が正しくて何が間違いかをすべて
決定しているのです。

 

真理省が決定したら
白いものも黒くなります。

 

戦争は平和である
自由は屈従である
無知は力である
(Kindle版No.292/5871)

本来、対立するはずの
「戦争」と「平和」や
「自由」と「屈従」が
一緒くたにされます。

 

結果、「屈従することが自由なのだ」と
人々に信じ込ませることができるのです。

 

こういうのを「二重思考」と
呼んでいます。

言葉の意味するものや
「真実」が国家によって規定されていくのです。

 

こんなシーンが有ります↓

「ウィンストンは両腕をだらりと下げて
ゆっくりと肺臓に空気を満たした。

心は「二重思考」の迷路に
滑り込んでいった。

知ること、そして知ってはいけないこと、
完全な真実を意識していながら
注意深く組み立てられた虚構を口にすること、

相殺し合う二つの意見を同時に持ち、
それが矛盾し合うのを承知しながら
双方ともに信奉すること、

論理に反する論理を用いること、
モラルを否定しながらモラルを主張すること、
民主主義は存立し得ないと信じながら
党こそ民主主義の擁護者だと信ずること、

忘れ去る必要なることはすべて忘れ、
しかし必要とあれば再び記憶の中に蘇らせて
再び即座に忘れ去ること、

そしてなかでも、その同じ方法それ自体にも、
この方法を適用するということ。

それが窮極のなかなか微妙な点であった」
(No.625/5871~630/5871)

 

実はいま、
『1984年』を読む人が
地味に増えているそうです。

 

アメリカのトランプ大統領が
自分に不都合なニュースを
「フェイクニュース」といい、
「オルタナティブ・ファクト」という言葉で
表現する様子が、まさに『1984年』の世界
そのままだからです。

やっかいなことに
Facebookやグーグル、アマゾンは
顧客情報を大量に保有しています。

 

Facebookに預けられた個人情報の
価値から考えると、
フェイスブックって
本来「月4,500円」払わないと
いけないくらいのサービスだそうです。

 

4,500円分の個人情報を、
われわれはフェイスブックに
提供しているわけですね。

 

 

こういった点も
『1984年』に近いようです。

 

 

 

では、『1984年』同様の監視社会であり、
何が真実かを権力者が決定できるような現代において、
私たちはどうしたらいいのでしょうか?

 

主人公ウィンストンの
抵抗の仕方が参考になります。

 

 

ウィンストンが始めた抵抗、
それはなんと
「日記」を書くことだったのです。

 

「彼が試みようとしていたのは
日記をつけはじめるということであった。
違法行為ではなかったが
(何をやろうと法に反していなかった、
もはや法律など存在していなかったからである)、
しかしそれが発覚したとすれば、
まず間違いなく死刑か最低25年の強制労働に
処せられるはずだ。

ウィンストンは軸にペン先をはめこみ、
グリースを取るためにペン先をなめた。
ペンはいまや時代おくれの器具で、
もはや署名などにさえ使われなくなっていた。

(…)
彼はペン先をインク瓶にひたしたが、
そこで一瞬たじろいだ。
旋律が体内を突き抜けたのである。
紙に文字を記入すること自体が
決断を必要とする行為であった。

小さなぎこちない文字で彼は書いた」
(No.123/5871-129/5871)

 

 

国民の思考すらも
監視できる『1984年』の世界。

ここにおいて自分の考えを誰にも知られない形で
残すには「日記」しか残っていないのです。

 

ウィンストンは
日記を書くことにかなり躊躇していました。

 

しかし、意を決して書き始めました。

 

「彼は突然、取り憑かれたように
書き出した、
しかし自分が一体何を書いているのか
漠然としか分からなかった。

細字だが子供っぽい筆跡は
ページを上下によろめきながら、
最初は頭文字にすることを忘れ、
最後には終止符さえつけ落としてしまった」
(No.145/5871)

 

こうして主人公ウィンストンは
自分の考えを表現する方法を
手に入れたのです。

 

このシーンから分かるのは
自分の考えを深める方法が
「日記」を書く、ということだということです。

私は毎日ブログを書いています。
これ、ある意味の公開日記です。

 

公開日記を書くことで
自分なりの考えを
日々深める事ができているように感じています。

 

 

私は作文教室ゆうの受講生に
「新聞ノート」を書くことを
おすすめしています。

 

それは新聞記事の切り抜きと
そこから考えたことを書いていくことで
自分なりの考えを深めていくことが
できるからです。

 

 

『1984年』の時代でも
テレビなり映画なりはあります。

 

ところが文字として
自分の考えを書き残すことが
禁じられているのです。

 

そうすることで
国民が物を考える機会を
封じているのでしょう。

 

 

逆に言えばそれだけ
文章を「書く」ことに
自分の思考を深める意義があるということです。

 

 

どうせなら2019年、

「あなたって、
自分の考えをまったくもっていませんね」

と言われるよりも、

 

「あなたって、
すっごく物を考えていますね!」

「どうしてそんなに
オリジナルな視点が出せるんですか」

って言われるようになりたいですよね。

 

そうなる一つのきっかけは
「日記」を書くことでもあります。

 

 

別に日記って、
毎日書く必要は
まったくありません。

 

ウィンストンのように
書きたいときだけ書くのでも
構わないのです。

 

 

それくらいのレベルでも、
自分なりの思考を深めていくことが
できます。

ふだんから少しずつでも書いていると、
文章力も上がっていくものなのです。

 

今日のポイントです。

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自分の考えを深めるため、
少しずつでも「書く」機会、
増やしませんか?
書きたいときだけ日記を書くのも
おすすめです!
・・・・・・・・・・・・・・ 

 

今回、ジョージ・オーウェルの
『1984年』についてご紹介しました。

 

この『1984年』、
実はまだまだ読み始めたばかり。

 

 

なんとなくオチは知っていますが、
ちゃんと読みながら
これからの時代の「生き方」を
考えていきたいと思います。

 

じっくり本を読んで
自分の「生き方」を考える。

 

こういう時間って貴重ですね!

 

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ではまた!


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