作文を書いている時って、ある意味熱中しています。
ペンやキーボードのおもむくまま書いていると、うっかり「調子に乗った」文章を書いてしまうことがあります。
例)その角を過ぎると、びっくり仰天! 意外な人物が立っていた。年の頃五十七、八の私の父であった。
どこかで聞いたような言い回し。
大げさなだけで内容が何もない。
こんな文、大学生のオチケン(落語研究会)1年生の漫才同様、「俺ら、面白いことしてるぜ!」という自意識満載な「イタい」文章の典型です。
なぜイタイのか?
「照れて」しまっているからです。
内容自体で勝負できず、「ちょっと面白いこと言っているよ」というアピールが出ているのです。
照れしまうと、人間だれしも笑ってしまいます。
自分自身がおかしいことをしている認識がある分、自分で自分のネタに笑ってしまうのです。
私が作文修行で読んだ本多勝一『日本語の作文技法』は、そんな人への警告を発しています。
落語の場合、それは「おかしい」場面、つまり聴き手が笑う場面であればあるほど、落語家は真剣に、まじめ顔で演ずるということだ。観客が笑いころげるような舞台では、落語家は表情のどんな微細な部分においても、絶対に笑ってはならない。眼じりひとつ、口もとひとつの動きにも「笑い」に通じるものがあってはならない。逆に全表情をクソまじめに、それも「まじめ」を感じさせないほど自然なまじめさで、つまり「まじめに、まじめを」演じなければならない。(…)
全く同じことが文章についてもいえるのだ。おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるべきではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」と叫んでいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。(213)
ラストの指摘がすごく大切ですね。
「その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない」。
作文は技巧ではないのです。
「どう書くか」のレベルではなく、むしろ「何を書くか」を重視すべきです。
書く内容がない場合、もったいぶった言い回しや「イタい」文章を書いてしまいがちです。
自戒も含めてですが・・・。
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