入試の時期や大学の卒業論文。
「堅い」文章を書く機会って、意外にあります。
そんなときのために「堅い」文章の練習が必要になります。
「堅い」文章とは、新聞や新書などに使われているような書き方です。
何かを論理的に書いていく・説明していくような書き方です。
例として、いじめ問題をあげましょう。
毎年、何件かは「いじめ自殺」の報道がなされています。
「いじめ自殺について思うことを書きなさい」という課題が出た時、あなたはどんなふうに書きますか?
「いじめ自殺なんてなくなるべきだ!」
「いじめ自殺防止のため、相談機関を設けるべきだ!」(もうあるけど)
「いじめ自殺に関する中立的調査機関をつくるべきだ!」
「文科省や教育委員会ではいじめ自殺は防げない!」
こういった「正論」もあります。
一方、そこからズラした理論もあります。
「いじめはなくならない!だから、【どうしても人をいじめてしまう】という人間の心理への更なる理解・研究が必要だ!」
「自殺につながるようないじめを行ってしまうのは、人間関係スキルが身についていないことが原因だ。だから学校教育の中で人間関係スキルを身につける機会をつくるべきだ!」
もっと「極端」な意見もあります。
「いじめ自殺という言葉が報道されるから、【いじめ→自殺】という流れがなりたつ。だから報道で「いじめ自殺」という言葉を使うのをやめれば、【いじめ→自殺】という図式が消えるため、結果的にいじめ自殺という概念自体がなくなることになる。そのことにより、「いじめ」と「自殺」がつながることがなくなり、結果的に命がすくわれることになる」
まあ、いろんな意見をいうことができます。
しかし。
大事なのはここからですよ。
「いじめ自殺について思うことを書きなさい」というのは、別に「いじめ自殺をどうすればなくせるか」ということを聞いているのではないのです。
よくある作文の失敗に、「〜〜べき」論を書いてしまう、というのがあります。
社会学系の大学院で私が鍛えられたのがこの点です。
社会学という学問の特徴は「判断留保」です。
世間的には「よい」とされていることを一度「判断留保」する。
そして「ほんとうに『よい』ことなの?」と問いなおす。
反対に、世間的には「わるい」とされていることも一度「判断留保」する。
そして「ほんとうに『わるい』ことなの?」と問いなおす。
それが社会学の特徴です。
いじめ自殺の例に戻りましょう。
どう考えても、一般的にはいじめ自殺は「わるい」ことです。
「いいことだ!」という人は(よほどスプラッター系が好きな人を別として)まずいません。
そのため、問題文で「いじめ自殺について思うことを書け」と聞かれた時、「いじめ自殺は絶対に良くない!」「なくなるべきだ!」という「〜〜べき」論を述べることになります。
100人いたら、98人はこの図式で書くわけです。
試験官からすると、100枚の答案の内98枚が「〜〜べき」で終わっている文章を読むわけです。
どう思います?
まず間違いなく「またこのパターンか・・・」という反応になるはずです。
一般的に、人間は「〜〜について思うことを書きなさい」と言われると、まず間違いなく「〜〜は悪いことだ!」「〜〜はいいことだ!」という価値判断から入ります。
そのため、どの作文も「〜〜するべきだ!」という主張に終わってしまいます。
そうではないのです。
「いじめ自殺について思うことを書きなさい」という質問には、「いじめ自殺」それ自体について、判断留保したうえで答える必要があるのです。
そこまでしてはじめて、「いじめ自殺は絶対に無くすべきだ!」という議論ができるのです。
いじめ自殺という現象を客観的に見てみると、いじめる相手といじめられる相手という二者から成立していることが分かる。いじめられる相手が耐えられない程度にまでいじめが進むことによって、いじめられる相手は「いじめ自殺」をすることになる。
思うに、いじめという現象は人間にとって身近なものである。人間関係の中で、他者よりも有意に立とうとする衝動はどの人間にもある。努力することでその衝動を自己成長に繋げる場合、他者をいじめることはない。しかし、自己成長をしないで容易に他者よりも優位に立つ方法が「いじめ」である。自分が何も成長していなくとも、他者を「いじめ」によって貶めることで自己は他者よりも有意な状態となる。
人間にとって、自己成長を伴わない状態で「他者よりも有意に立とう」とする場合、「いじめ」を行う傾向があるといえる。そのため、「いじめ」という存在は本質的にはなくなることは無いといえる。それは自分を高める努力をしなくなった主体が行う行為である。
「いじめ」はなくならない。しかし、自殺を選択するほどにまで耐えられない苦痛を他者に与える行為を取ることは認められるべきことではない。そのために筆者は次の方法を提案する。それは・・・
ここまで書いて、はじめて「〜〜すべきだ!」という主張ができるわけですね。
カンタンに「〜〜すべきだ!」と言ってはいけないわけです。
「ほんとうに聞かれていることは何?」と考えてみましょう。

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