森信三先生『修身教授録』読書会&名言集


森信三先生に学ぶ会、開催中!

 

知り合いとともにはじめている、
森信三先生に学ぶ会」。

哲学者であり教育者として高名な
森信三先生の著作
『修身教授録』を
皆で読んでいくイベントです。

 

森信三『修身教授録』とは?

森信三は戦前から活躍する哲学者。

 

京都大学で西田幾多郎に学んだという、
日本の哲学の本流を行く人。

 

教育者としても有名で、
現在の大阪教育大学にあたる
天王寺師範学校で教鞭をとっていました。

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天王寺師範学校とは
学校の先生を育成するための場所。

「先生になりたい!」学生たちに、
どのような先生になるべきか語っていったのです。

この『修身教授録』は森信三が
天王寺師範学校で「修身」の授業を担当した際の講義録です。

授業の際に森信三が話した内容を、
学校の日直が書き留めていくのです。

そのため、森信三の姿勢がリアルに描かれています。

当時を思えば不思議なほど、「軍国主義」の色が出てきません。

 

あくまで哲学者の立場から
「君たちはどう生きるか」
「教師として、君たちはどう仕事を進めていくべきか」
を具体的に丁寧に教えていったのです。

 

そんな森信三の思想や思いを学ぶ会です。

 

一番根本的な指導は、何と言っても、有志の青年たちの
読書会を設けることでしょう。(『修身教授禄』127ページ)

 

毎回、様々な意見を聞きながら進めています。
森信三先生から、「生き方」「考え方」など
触発を毎回受ける場となっています。

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ご参加希望の方は
お気軽にお問い合わせください。

【日時】毎月1回 10:00-12:00

【場所】作文教室ゆう/理数教室ゆう札幌駅前校

【参加費】500円(会場費として)

 

 

☆森信三先生の教えを
現代に活かすことを目的とした
会があります。

 

それが
実践人の家
です。

この度、
「実践人の家」が認定する、
森信三先生の読書会一覧の中に、
わが読書会も登録していただきました!

 

これまでの講座の歩み

☆ リンクをクリックすると、
その様子がご覧になれます。

▼第13回 『修身教授録』第二部第21-25講
10/12(木)10:00-12:00
Facebookイベントはこちら

▼第12回 『修身教授録』第二部第16-20講
9/15(金)10:00-12:00
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▼第11回 『修身教授録』第二部第11-15講
8/4(金)10:00-12:00
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▼第10回 『修身教授録』第二部第6-10講
7/7(金)10:00-12:00
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▼第9回 『修身教授録』第二部第1-5講
6/7(水)10:00-12:00
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▼第8回 『修身教授録』第36-40講
5/2(火)10:00-12:00
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▼第7回 『修身教授録』第30-35講
3/29(水)14:00-16:00
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謙虚と卑屈って、何が違う?自分の中に「確固たるもの」を築こう!

2017.03.31

▼第6回 『修身教授録』第24-29講
2/9(木)10:00-12:00
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▼第5回 『修身教授録』第18-23講
平成29年1/11(水)10:00-12:00
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第4回 『修身教授録』第13-17講
12/7(水) 10:00-12:00
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第3回 『修身教授録』第7-12講
11/11(金)10:00-12:00

第2回 『修身教授録』第2-6講
10/3(月)10:00-12:00

第1回 『修身教授録』第1講
平成28年 9/3(土)15:00-17:00

 

 

森信三『修身教授録』名言集

ここでは
森信三『修身教授録』の
名言集を掲載します。

( )内はページ数です。

第1講 学年始めの挨拶

「ところが私の考えによりますと、われわれ人間というものは、すべて自分に対して必然的に与えられた事柄については、そこに好悪の感情を交えないで、素直にこれを受け入れるところに、心の根本態度が確立すると思うのであります。」(13)

 

第2講 人間と生まれて

「つまり昔の人たちは、自分が人間として生をこの世にうけたことに対して、衷心(ちゅうしん)から感謝したものであります。
事実それは、この「人身うけがたし」という言葉のもつ響きの中にこもっていると思うのです。」(21)

 

第3講 生をこの国土にうけて

「したがって私達がこの国を愛するということは、必ずしもこの日本という国が、優れた国だからということよりも、むしろ先にのべたように、われわれにとっては、まったく抜きさしできないほどの深い因縁があるからだと言うべきでしょう。」(27)

第4講 生を教育に求めて

「私もまた諸君らと共に、生を教育に求めつつある一人であります。
すなわちこの二度とない人生において、自己の魂の道を、教育の世界に求めつつある人間であります。」(33)

 

第5講 教育者の道

「まず人を教えるということは、実は教える者自身が、常に学ぶことを予想するわけであります。すなわち教師自身が、常に自ら求め学びつつあるでなければ、真に教えることはできないのであります。」(35)

「単に教科の内容を教えることだけでも、実に容易ならざる準備と研究とを要するわけですが、さらに眼を転じて、教育の眼目である相手の魂に火をつけて、その全人格を導くということになれば、私達は教師の道が、実に果てしないことに思い至らしめられるのであります。」(36)

「人を教えようとするよりも、まず自ら学ばねばならぬということであります。」(37)

 

第6講 人生の始終

「われわれの心得ねばならぬ事柄は、それ故に人間は四十までは、もっぱら修行時代と心得ねばならぬということです。」(43)

「かくして四十代と五十代という、人間の仕上げ期の活動は、それまでの前半生において準備したところを、国家社会に貢献すべき時期であり、したがって四十歳までの準備が手薄ですと、四十歳以後六十歳までの活動も、勢(いきおい)、薄弱とならざるを得ないわけです。」(44)

 

第7講 志学

「自分が天からうけた力の一切を、生涯かけて出し切るところに、初めて、小は小なりに、大は大なりに、国家社会のお役にも立ち得るわけで、人生の意義といっても、結局この外にはないと言えましょう。」(52)

「真に教育者の名に値するような人々は、超凡の大志を抱きながら、色々と世間的な事情によって、それを実現するによしない立場に立たされた人傑が、現実的にはそれを断念すると共に、どうしても自分の志を、門弟子を通して達成せしめずにはおかぬ、という一大願を起こすところに、初めて生まれるもののようであります。」(53)

第8講 学問・修養の目標

「そもそも人間界のことというものは、一人の人間が自己に与えられた職責に対して、真に深く徹していったならば、その足跡は必ずや全国各地の同じ道を歩んでいる幾多の人々の参考となり、その導きの光となるはずであります。」(59)

第9講 読書

「読書はわれわれの生活中、最も重要なるものの一つであり、ある意味では、人間生活は読書がその半ばを占むべきだとさえ言えましょう。すなわちわれわれの人間生活は、その半ばはこれを読書に費やし、他の半分は、かくして知り得たところを実践して、それを現実の上に実現していくことだとも言えましょう。」(63)

「読書はわれわれ人間にとっては心の養分ですから、一日読書を廃したら、それだけ真の自己はへたばるものと思わねばなりません。」(65)

「諸君は、差し当たってまず「一日読まざれば一日衰える」と覚悟されるがよいでしょう。」(65)

第10講 尚友

「その人が自分の師を発見しない間は、いろいろと彷徨(ほうこう)して紆余曲折もありましょうが、一たび心の師が定まった以上は、迷いもおのずから少なくなり、また自分一人では決し得ないような大問題については、師の指図を仰いで身を処しますから、結局大したつまずきもなくなるわけです。」(71)

「すなわち真の友人関係には、ある意味で師弟関係の仕上げとも言うべき面があるからです。」(73)

 

第11講 人と禽獣(きんじゅう)と異なるゆえん

「かくしてわれわれ人間は、自己がこの世に生まれ出た真の意義を知り、自らの使命を自覚して、いささかでもこれを実現しようとするところに、人と禽獣との真の本質的な違いがあると言うべきでしょう。」(80)

 

第12講 捨欲即大欲(しゃよく そく だいよく)

「人間が真に欲を捨てるということは、意気地なしになるどころか、それこそ真に自己が確立することでもあります。否、さらにそれによって、天下幾十万の人々の心の中までも窺い知ろうという、大欲に転ずることであります。」(85)

「かくして人間は、自分一人の満足を求めるチッポケな欲を徹底的にかなぐり捨てる時、かつて見られなかった新たな希望が生まれ出るものです。これ果たして弱者の道でしょうか。諸君! すべからく深省すべきではないでしょうか。」(88)

 

第13講 使命の道

「人間の生涯を通じて実現せられる価値は、その人が人生における自分の使命の意義を、いかほど深く自覚して生きる否かに比例するとも言えましょう。」(91)

「人間の価値は、その人がこの人生の無限なる意味を、どれだけ深く自覚し、またそれをどれほど早くから、気付くか否かによって定まるとも言えましょう。」(92)

 

第14講 真実の生活

「お互い人間として最も大切なことは、単に梯子段を一段でも上に登るということにあるのではなくて、そのどこか1カ所に踏みとどまって、己が力の限りハンマーをふるって、現実の人生そのものの中に埋もれている無量の鉱石を、発掘することでなくてはならぬからであります。」(99)

 

第15講 諸君らの将来

「さて諸君らの将来について、私としてはまず最初に申したいと思うことは、人間というものは「年と共にしだいに忙しくなるものだ」ということです。なるほど学生時代もなかなか忙しくて、そのことは、私も自分の経験からして、よく承知していることですが、しかしい一たん世間へ出ますと、なかなか学生時代の比ではなくなるのです。」(105)

「真の読書というものは、自己の内心の已むにやまれぬ要求から、ちょうど飢えたものが食を求め、渇した者が水を求めるようであってこそ、初めてその書物の価値を充分に吸収することができるのであって、もしそうでなくて、研究発表だとか、あるいは講演に行かねばならなくなったからなどといって、急にあちこちと人に聞きまわって読んだような本からは、同じ一冊の本を読んでも、その得るところは半分、否、三分の一にも及ばないでしょう。」(107)

「一人の人間の持つ世界の広さ深さは、要するにその人の読書の広さと深さに、比例すると言ってもよいからです。」(107)

 

第16講 一道をひらく者(Ⅰ)

「真の教育者は、少なくとも二十年、三十年先の国家のことを、常にその眼中に思い浮かべていなくてはならぬとも言えましょう。」(111)

「ですから、私は常に思うのです。人間もこの自分という一微小存在すら、国家全体に対しては、代理人のない一個独自の任務の存することを自覚するに至って、初めてわれわれの真の人生は始まるわけだと。」(113)

 

第17講 一道をひらく者(Ⅱ)

「すなわちわれわれ人間は、真に自己の生活に徹して生きた時、一人自分がその職責を全うし得るのみならず、さらに同じ職域にいる他の人々に対しても、何らかの意味で、お役に立つことができるのであります。」(116)

 

第18講 人を植える道

 

「教育ということは、これを言い換えると「人を植える道」と言うこともできましょう。すなわち一人の人間を真に教育するということは、たとえば一本、一本気を植えるようなものであって、たとえ植えた当の本人たる教師自身は亡くなっても、もしその木が真に生えついていたならば、木はどこまでもその生長をやめないでしょう。」(123)

 

「真の個性教育とは、我流の教育にあらずして、真実に生きることを教える教育なり。相手をして真に止むに止まれぬ一道を歩ましめんとの一念に生ずるなり。」(128)

☆ 教育論として第18講はすごく味わい深い。

 

第19講 松陰先生の片鱗

 

「大声で生徒を叱らねばならぬということは、
それ自身、その人の貫祿の足りない何よりの証拠です。
つまりその先生が、真に偉大な人格であったならば、
何ら叱らずとも門弟たちは心から悦服するはずであります。」(130-131)

「優れた師匠というものは、
常にその門弟の人々を、
共に道を歩む者として扱って、
決して相手を見下すということをしないものであります。」(131)

 

「もし教師にして、
真に限りなく自らの道を求めて已まないならば、
自分もまた生徒たちと共に歩んでいる、
一人の求道者にすぎないという自覚が生ずる
はずであります。

すなわち求道者たる点では、
自分と生徒たちとの間に、
何らの区別もないというわけです。」(131)

 

第20講 雑話

「本を読む場合、分からぬところはそれにこだわらずに
読んでいくことです。

そうしてところどころピカリピカリと光るところに
出合ったら、
何か印を付けておくもよいでしょう。

そして一回読み終えたら、
少なくとも二、三ヶ月は放っておいて、
また読んでみるのです。

そうして前に印をつけたところ以外にもまた、
光るところを見つけたら、
また新たに印を付けていく。

そうして前に感じたことと、
後に感じたことを比べてみるのは面白いものです。」(137)

「私の平素申していることは「常に書物を読んで、卒業後
独力で自分の道を開いていけるような人間にならねばならぬ」ということです。」
(138)

 

☆ 本の読み方など、
「方法論」も森信三先生は教えている。
すぐに実践できるような形で伝えているのだろう。

 

第21講 血・育ち・教え

「教育者は必ずしも教育思潮を知るを要せず。
肝腎なことは、自己を知ることを通して
生徒の真実を把握することなり。

しかもこれを照らす光としては、
先哲の思想を近代に継承展開せる
思想界の真の一人者につくを要せむ。」(149)

 

第22講 鍛錬道(Ⅰ)

「全体との無限連関の理明らかになりて、
初めて「分」の自覚を生ず。
世の中は総て受け持ちなりと知るべし。
受持ちとは「分」の謂にして、
これも悟りの一内容なり。」(154)

 

第23講 鍛錬道(Ⅱ)

「われわれ凡人は人生のある時刻において、
何らかの意味でかようなきびしい鍛錬を
その師から受けない限り、
真の人間とはなれないのではないでしょうか。

ところが現在の学校教育では、
とうていこのようなものに触れることはできないのです。

この問題は、一体どうしたらよいでしょうか。
ここにある意味では、お互いに課せられた今後の、
そして最大の課題があると言ってもよいでしょう。」(160)

 

第24講 性欲の問題

「そこで今性欲に関する問題を結論的に言うと、
性欲の微弱なような人間は、
真に偉大な仕事をすることはできないと言っても
よいということです。」(162)

「すなわち人間の力、人間の偉大さというものは、
その旺盛な性欲を、常に自己の意志的統一のもとに
制御しつつ生きるところから、生まれてくると言っても
よいでしょう。」(162)

「古来独りを慎むことが大切とされていますが、
真独とは、ある意味では、この性欲を慎むところに、
その最下の基盤があると言ってもよいでしょう。」(165)

☆こういうテーマも、「生きていく」上で役立つとして
講義する森信三先生。

 

第25講 質問

「とにかく真の修身科は、いつも申すように、
自分の一生の志を立てることが根本です。
つまり、自分の生涯を貫く志を打ち立てる
ということです。

人間も自己を修めないことには、
真の人物になることはできません。
このことを痛感して、
自修の決心を打ち立てる時、
そこに初めて真の修身科が始まるわけです。」(173)

 

第26講 仕事の処理

「われわれ人間の生活は、
ある意味ではこれを仕事から仕事へと、
まったく仕事の連続だと言ってもよいでしょう。
同時にその意味からは、
人間の偉さも、この仕事の
処理いかんによって決まる、
とも言えるかと思うほどです。」(175)

「それについて第一に大切なことは、
先にも申したように、
仕事の処理をもって、自分の修養の
第一義だと深く自覚することでしょう。」(176)

 

第27講 成形の功徳

「しかるにそれに形を与えるか否かによって、
その内容の現実における働きの上には、
大きなひらきが出てくるわけです。」(184)

☆単なる「メモ」ではなく、
このブログのように「形」にすることの
大事さを教えてくださっている。

第28講 一人一研究

「偉人の書を読み、たとえ一、二ヵ所にしても、
ひしひしと我が身に迫るものあれば、
その程度に、その偉人に触れたるものと
言うを得べし。」(196)

 

第29講 対話について

「対話というものは、
われわれ人間生活においては、
非常に重要な意味を持つものだからです。

実際、われわれの人間生活と言っても、
それを大観する時、結局は
話すことと行うことという二つのこと以外は、
何一つないと言ってもよいからです。」(197)

 

第30講 謙遜と卑屈

「そもそも真に謙遜ということは、
その人が内に確固たるものを持っていなくては
できないことではないかということであります。
言い換えれば、人は自ら信ずるところがあってこそ、
初めて真に謙遜にもなり得ると思うのです。」(204)

「してみれば、人は真に謙遜ならんがためには、
何よりもまず自己というものが確立している事が
大切だと言えましょう。」(206)

「どうも謙遜という徳は、
私の考えでは、元来対人的なところに
その本質はなくて、その人がどれほど
真理とか道というものと、
取り組んでいるか否かに
よるものだと思うのであります。」(208)

 

第31講 上位者に対する心得

「上位者に対する心得の根本を一言で申しますと、
「すべて上位者に対しては、
その人物の価値いかんにかかわらず、
ただその位置が自分より上だという故で、
相手の地位相応の敬意を払わねばならぬ」
ということでしょう。」(211)

 

第32講 目下の人に対する心得

「そもそも目下の者が甘えるとか、
さらにはつけ入るなどということは、
結局は上の者の方が、
先に心の隙を見せるからです。」(223)

 

第33講 ペスタロッチー断片

「そもそも人間というもは、
情熱を失わない間だけが、
真に生きていると言ってよいのです。」(227)

 

第34講 国民教育の眼目

「すなわち真の教育というものは、
単に教科書を型通りに授けるだけにとどまらないで、
すすんで相手の眠っている魂をゆり動かし、
これを呼び醒ますところまで
行かねばならぬのです。」(234)

「すなわち「自分もいつまでもこんなことを
していたんでは、大した教師には
なれないだろう。
一端の教育者となるには、
何とかして現在のこの生温さを
克服しなければならぬ」と、
日夜思いつめるところがなくてはならぬのです。
この思いつめる力そのものが、
実は刻々に、
自分に対して内面的な力を与え、
それがやがてまた
将来の飛躍への原動力となるのです。」(238)

 

第35講 為政への関心

「すなわち真の良書というものは、
これを読むものに対して、
その人の人生行路を決定していく意義を持つ
と言ってもよいからです」(241)

「すなわち古来優れた教育者と言われるほどの人は、
多くはその抱いた経綸の志が、
何らかの障害によってその実現が阻まれることにより、
経綸の直接的実現を断念すると共に、
後に来る幾多の英俊を育てることによって、
それらを通して実現しようと念ずるに至った
人々だからであります。
すなわち古今の偉大な教育者の多くは、
その経綸の志の実現が阻止せられたことを縁として、
深く教育の世界へ転じてきた人々であります。」(243)

 

第36講 誠

「要するに誠に至るのは、
何よりもまず自分の仕事に全力を挙げて
打ちこむということです。
すなわち全身心を捧げて、
それに没入する以外にはないでしょう。
かくして誠とは、
畢竟するに
「己れを尽くす」
という一事に極まるとも言えるわけです。」(252)

「誠に至る出発点は、
何よりもまず自分の仕事に打ち込む
ということでしょう。」(253)

 

☆第26講同様、
思いを込めて仕事に取り組むことの
大事さの指摘である。

 

第37講 死生の問題

「生徒の寒さに対する察し
一つつかないようでは、
教師の資格はありません。」(255)

「ですからわれわれは、
この世にある間は、自分の全力を挙げて
この世の務めを尽くす。
これやがて、安んじてこの世を去る
唯一の秘訣でありましょう。

いざという時に心残りのない道、
これ真に安んじて死に得る唯一の道であります。」(262)

 

第38講 小学教師の理想

「すなわち、小学校教師として、
諸君たちの将来の理想は、
諸君らの教えた生徒たちの力によって、
将来その地方の民風が興って、
町村が根本から立て直されるようになるという
ことです。

すなわち諸君らの力によって、
校下の民風がその面目を一新する日が
あるようになって、
初めて諸君らは、
小学教師としてほぼその理想を
実現したものと言ってよいでしょう。」(268)

 

第39講 教育の窮極(きゅうきょく)

 

「われわれは苦労することによって、
自分のおめでたさを削りとって
もらうんです。
現実の世界は決して
お目出たくはないのです。」(271)

 

「教育の窮極目標は
これを一言で申せば、
自分の受け持っている子らの
一人ひとりが、
すべて次代を担うかけがえのない
生命だということを、
単に言葉の上だけでなくて、
見に染みて痛感することで
ありましょう。」(273)

「かくして、
諸君らとして最も大切なことは、
教育者として人生の本腰を決めて
かかるということであり、
そして一人びとりの子らの魂に、
生命の息吹を吹き込むことで
ありましょう。」(276)

 

第40講 わかれの言葉

「かくして諸君らは、
真に自分の道を開くものは、
自己自身でなくてはならぬということを、
今日から深く覚悟しなくてはならぬと
思うのです。

道を歩むにはどこまでも
わが足をもって
自から歩むの外ないように、
いやしくも人間たる以上、
自分の道は常に自己一人の力によって
開かなければならぬのです。」(282)

 

☆これで1年分の講義ということに
なります。

1937(昭和12)年3月から
1938(昭和13)年4月までの講義。

このあと1943年(昭和18年)には
「学徒出陣」などあり
教員養成ができなくなるような
時期。

森信三先生のもとにも
教え子の死の連絡などが
入ってくることに。

その苦悩を感じます。

 

第2部 第1講 挨拶

 

「私は、人生の真の出発は、
志を立てることによって
始まると考えるものです。

古来、真の学問は、
立志をもってその根本とす
と言われているのも、
まったくこの故でしょう。

(・・・)このように私は、
志を打ち立てるところに、
学問の根本眼目があると
信じるものです。
その他のすべての事柄は、
要するにこの根本が打ち立てられるところに、
おのずからにしてできてくるのです。」(291-292)

 

第2講 立志

 

「いやしくも、ひとたび
真の志がたつならば、
それは事あるごとに、
常にわが念頭に現れて、
直接間接に、
自分の一挙手一投足に
至るまで、
支配するところまでいかねばならぬと
思うのです。」(296)

「かくして、われわれ人間は、
その人の願いにして
真に真実であるならば、
仮にその人の肉体が
生きている間には実現せられなくても、
必ずやその死後に至って、
実現せられるものであります。」(299)

「この人生は二度とないのです。
いかに泣いてもわめいても、
そのわれわれの肉体が
一たび壊滅したならば、
二度とこれを取り返すことはできないのです。
したがってこの肉体の生きている間に、
不滅な精神を確立した人だけが、
この肉のからだの朽ち去った後にも、
その精神はなお永遠に生きて、
多くの人々の心に
火を点ずることができるでしょう。」(299)

☆下学雑話に
「酒宴の常の心得を解くこと、
古来「葉隠」の懇切なる如くはなし」(300)
とあります。
『葉隠』に書かれた酒宴の心はこちら

 

第3講 人生二度なし

 

「今この二度とない人生を、
できるだけ有意義に送ろうとすれば、
われわれとしては
何よりもまずこの人生が二度と
繰り返し得ないものであり、
しかも自分はすでに人生の
ほぼ三分の一とも言うべき
二十年近い歳月を、
ほとんど無自覚のうちに
過ごしてきたということが、
深刻に後悔せられなくてはなるまいと思うのです。」(304-305)

「人生の真のスタートは、
何よりもまずこの
「人生二度なし」という真理を、
その人がいかに深く痛感するか
ということから、
始まると言ってよいでしょう。」(307)

第4講 生命の愛惜

「今日一日、
わが生命をいかに過ごしたか
ということについて、
日々深刻に省みつつある人は、
諸君らの間にも、
あまりないではないかと思います。」(309)

「そもそも真実の教育というものは、
自分の失敗とつまづきとを、
後に来る人々に、
再び繰り返さすに忍びないという
一念から起こると言っても
よいでしょう。」(310-311)

 

第5講 一つの目標

 

「そこで私は、
諸君たちに対して、
ここに一つの中間目標を
掲げてみましょう。

それは諸君らは一つ
四十になったら、
必ず一冊の本を書く覚悟を、
今日からしておいて戴きたいのです。
そしてその頃まだ私がまだ生きていたら、
ぜひ一冊頂戴したいものです。」(317)

「できないというのは、本当にする気がないからです」
(318)

 

第6講 意地と凝り性

「今たとえて申しますと、
今日の軍艦は、諸君もご承知のように、
重油を燃料として走るわけです。
あの黒い、ドロドロした臭い重油は、
もしそれだけだったら、
実に始末におえないものでしょう。

しかしながら、
ひとたびそれに火を点ずるならば、
重油は自らの一切の醜さを焼捨てることによって、
そこに絶大な動力を生み出すことができるのです。」(322)

「とかくわれわれ凡人は、
偉人の教というものを、
常にわが身から離さないように
していないと、
わが身の反省ということも、
十分にはできがたいものであります。」(324)

 

第7講 大志を抱け

 

「そこからしてまた私達は、
また野心という言葉と
「志」という言葉との区別を
せねばならぬでしょう。

野心とか大望というは、
畢竟するには自己中心のものです。
すなわち自分の名を高め、
自己の位置を獲得することが
その根本動機となっているわけです。

ところが、
真の志とは、
この二度とない人生をどのように生きたら、
真にこの世に生まれてきた甲斐があるかということを
考えて、
心中につねに忘れぬということでしょう。

ですから結局最後は、
「世のため人のために」という
という所がなくては、
真の意味で志とは
言いがたいのです。」(329)

第8講 気品

「そこで諸君らも今日から、
どうしたら気品を高めることができるか
ということを、常に心の根本に
置いていただきたいと思うのです。

それには只今も申すように、
まず慎独ということを、
その中心とされるがよいでしょう。」(333)

第9講 情熱

「かくして人間は、
軍艦が重油の切れたときストップするように、
内なる情熱の枯れ果てた時、
その進行は止まるのです。

すなわちその時人間は、
生きながらミイラとなり、
文字通り生ける屍となるのです。

教師というものは、
とかくこういう種類の人間に
なりやすいものですから、
お互いに深く注意を要すると思うのです。」(337)

「感激とか感動というものは、
その人の魂が死んでいない何よりの証拠です。

ですからわれわれ人間は、
感激や感動のできる間は、
まだその人は進歩する可能性を持っていると
言ってもよいでしょう。」(337)

第10講 三十年

「私がここに「三十年」という題を掲げたのは、
実は人生の正味というものは、
まず三十年くらいのものだという意味です。

実際人間も三十年という歳月を、
真に充実して生きたならば、
それでまず一応満足して死ねるのではないか
と思うのです。」(342)

「天下第一等の師につきてこそ、
人間も真に生き甲斐ありといういうべし。」(346)

 

第11講 長所と短所

「知識とか技能というような、
いわば外面的な事柄については、
一般的には短所を補うというよりも、
むしろ長所を伸ばすほうが、
よくはないかと考えるのです。

ところがこれに反して、
自分の性格というような、
内面的な問題になりますと、
私は、
長所を伸ばそうとするよりも、
むしろまず欠点を矯正することから始めるのが、
よくはないかと考えるものです。

以上が、人間の長所、短所の問題に
対する、私のかねてからの考えなのです。」(348)

「すなわち人間の性格上の問題としては、
自分の欠点を反省して、
これを除くという努力が、
実はそのまま、
長所を伸ばすということになるわけです。

すなわち精神界にあっては、
長所と短所とは別物ではなくて、
同一物であるが、
ただそれが反省によって浄められるか否か、
ただそれだけの相違にすぎないというわけです。」(351)

 

第12講 偉人のいろいろ

「毎日よくやっていると、
たとえその人の素質は、
それほどなくても、
堅実な道が開かれます。
そこで教師としては、
どうしても才能と勤勉、
まじめと見識という
両方面を知らねばならぬのです。

世の中へ出ても、
まじめでコツコツやっていれば
間違いはないのですが、
才能のある人は、
うっかりすると
踏み外しやすいのです。」(353)

 

第13講 伝記を読む時期

「読書ということは、
われわれの修養の上では、
比較的たやすい方法だと思うのです。

したがってそれさえできないような人間では
てんで問題にならないわけです。

つまり真の修養というものは、
単に本を読んだだけでできるものではなくて、
書物で読んだところを、
わが身に実行して初めて
真の修養となるのです。

それゆえ書物さえ読まないようでは、
まったく一歩も踏み出さないのと同じで、
それでは全然問題にならないのです。」(358)

 

第14講 人生の深さ

「人生を深く生きるということは、
自分の悩みや苦しみの意味を深く
噛みしめることによって、
かような苦しみは、
必ずしも自分一人だけのものではなくて、
多くの人々が、
ひとしく悩み苦しみつつあるのだ、
ということが分かるようになることではないか、
と思うのです。

これに反して、
人生を浅く生きるとは、
自分の苦しみや悩みを、
ただ自分一人だけが
悩んでいるもののように考えて、
これを非常に仰山(ぎょうさん)な
ことのように思い、
そこからして、
ついには人を憎んだり怨んだりして、
あげくの果ては、
自暴自棄にも陥るわけです。」(365)

「人生を深く生きるということは、
自分の苦しみ、
すなわち色々な不平や不満 煩悶(はんもん)などを、
ぐっと噛みしめて行くことによって、
始めのうちは、
こんな不幸な目に出会うのは
自分だけだと思い、
そこでそのことに関連のある人々に対して、
怒りや怨みごころを抱いていたが、
しだいにそうした苦悩を噛みしめていくことによって、
かような悩みや苦しみを持っているのは、
決して自分ひとりではないということが
分かり出して来るのです。

そして広い世間には、
自分と同じような苦しみに悩んでいる人が、
いかに多いかということがしだいに
分かり出して来て、
さらに、それらの人々の
悩みや苦しみに比べれば、
自分の現在の悩みや苦しみの如きは、
それほど大したものでもなかったということが、
分かり出して来るのです。」(366)

「人間の真の偉さというものは、
その人が自分のすぎさった過去を、
現在もどの程度忘れずにいて、
これを生かしているか否か、
ということによって、
決まるとも言えましょう。」(367)

 

第15講 一時一事

「「一時一事」の工夫ということについては、
すでに諸君らも、
文字によって大体の推察はおつきでしょうが、
人間というものは、
なるべく一時に
二つ以上のことを考えたり、
あるいは仕事をしないように、
ということです。

すなわち、ある一時期には、
その時どうしてもなさなければならぬ
唯一の事柄に向かって、
全力を集中し、
それに没頭するがよい、
ということです。」(370)

「自分が現在なさなければならぬと
分かった事をするために、
それ以外の一切の事は、
一事思いきって
ふり捨てるということです。」(371)

「この「一時一事」ということは、
これを「一気呵成(いっきかせい)」と
言ってもよいわけですが、
またこれを他の方面から申せば、
「三昧」とか、
あるいは「没頭」と言っても
よいでしょう。

われわれが真に、
自己の充実を覚えるのは、
自分の最も得意としている事柄に対して、
全我を没入して
三昧の境にある時です。」(373)

「そもそも迷うということは、
人間が一つのことに没頭できなくて、
あれこれと取捨の決定に
躊躇することを言うわけです。

ですから、人間一たん取捨に迷い出すと、
どんなに自分の得意な事柄でも、
苦痛となり悩みとなってくるものです。

そしてイライラして来て、
自分の空虚感を感ぜずにはいられなくなるのです。

否、人間の悩みと苦痛とは、
その場合、自分の得意とする事柄で
あればあるほど、
かえって深刻になるのが常です。」(373)

☆こういう
「仕事のコツ」のようなものも
教えてくださる森先生の優しさを感じる。

第16講 良寛戒語

(良寛の残した自戒の言葉90項目を紹介した後で)
「自己を磨く工夫を、
これほど細やかに記したものは、
ほとんど他に類例がないでしょう。
つまり終日子供らと遊び暮らすには、
先ずこの程度の修業をして、
徹底的な人間のあく抜きをしてからでないと、
本当にはできないことです。」(383)

☆第11講の
〈短所を戒める〉部分の
追加説明か。

第17講 質問

(偉業を成し遂げるような人の風貌)
「第一は、自分のやりたいことはすぐにやる。
つまり自分が本当にしたいと思ったことは、
何者をなげうってもただちにそれをやる。
たとえば本が読みたくなれば、
たとえそれが真夜中でも、
すぐに飛び起きて読むといった調子です。」

「そしてもう一つは、
夢中になるということです。
夢中になることのできない人間は、
どうも駄目なようですね。

それからもう一つは、
最後までやり抜くということです。
人間が偉いか偉くないかは、
これで岐れるのです。

大体物事というものは、
七割か七割五分までいくと、
辛くなるものです。
富士登山でいえば、
胸突き八丁です。

そこをしゃにむにやり通すかいなかによって、
人間の別が生じるんです。

ですからたとえフラフラになっても、
ぶっ倒れるまでやり抜くんです。

そしてこのような頑張りこそ、
最後の勝敗を決するんです。」(385-386)

「とにかく人間は徹底しなければ駄目です。」(387)

第18講 忍耐

「他日小学校で修身を教える場合には、
ただ教科書に書かれていることを
型通りに教えるだけではだめです。

そうではなくて、
この自分というものが、
教科書に示されている真理にぶつかって、
そこにいかなる響きを発するか、
それを語るでなくては、
生徒の心には響かないでしょう。」(396-397)

第19講 自修の人

「そこで今、
諸君らにとって何よりも大事なことは、
真に自己をつくるものは、
自分以外にはないということです。

すなわち自己を鍛え、
自分というものを、
一個の人格にまで築き上げていくのは、
自己以外にはないということを、
深く認識し
決心するということでしょう。」(400)

第20講 老木の美

「すなわち一人の優れた人格というものは、
決して生易しいことでできるものでは
ありません。

その人が、現実生活においてなめた
苦悩の一つひとつが、
その人を鍛えて、
その人から生なところを
削り取っていくわけです。

すなわち生活の鍛錬が、
その人からすべての甘さを
削り取っていくわけです。

その意味において
優れた人の顔には、
いわば一種の芸術品とも言うべき
趣が出て来るようであります。」(406-407)

 

☆第19講とも連続する話。
自分自身を作り上げていくことは
「老木の美」にも通じるのだ。

第21講 故人に尽くす一つの途

「すべて世の中のことというものは、
一人の人の熱心さのいかんによって、
事が運ぶという場合が少なくないようであります。
もちろん遺稿の出版というような仕事は、
お金のいることですから、
とうてい一人の力でできるものではありません。
が同時にまた実際には、誰か一人、二人口を切って、
事をはこぶ者が必要です。
そして、ともすればだれようとするところを、
最後まで持って行くということが大切です」(412)

☆故人に尽くすには
その人の言行録を出すこと。

第22講 下坐行(げざぎょう)

「人間を鍛えていく土台は、
一体どういうものかというに、
私はそれは「下坐行」というものではないかと思うのです。
すなわち下坐行を積んだ人でなければ、
人間のほんとうの確かさの保証はできないと思うのです。」(417)

「下坐行とは、先にも申すように、
自分を人よりも一段と低い位置に身を置くことです。
言い換えれば、その人の心の値打よりも、
二、三段下がった位置に身をおいて、
しかもそれが「行」と言われる以上、
いわゆる落伍者というのではなくて、
その地位に甘んじて、わが身の修養に励むことを言うのです。
そしてそれによって、
自分の傲慢心が打ち砕かれるわけです。」(417)

「自分よりつまらない人間の下につかえて、
なんら不安の色を見せないということなども、
一種の下坐行と言ってよいわけです。」(418)

第23講 卒業後の指導

「教え子がどういうふうに育っていくかという所に、
物質では求められない深い楽しみがあるわけです。
この味わいの分かり始めたものにして、
初めて真に教育の門に入ったと言えましょう」(422)

「卒業生を導いていくということになると、
どうしても教師自身が常に勉強して行かねばならぬわけです。
すなわち教師自身に、
常に求めてやまない心がなければならぬわけです」(424)

「真の修行とは、つねに限りなく求めることの外ないのです」(426)

第24講 出処進退

「出処進退のいかんは、
ある意味ではその一事でもって、
その人の全人格を判定せられる意味を持つのです」(428)

「では転じ方が悪いとは、
一体どういうことをいうかと申しますと、
一口に言えば無理をするということでしょう。
総じて世の中のことというものは、
無理のできないものでありまして、
無理をすると必ずどこかにその影響が現れるものです」(429)

「実は、出処進退が正しく見事であるということは、
その人の平生の態度が、
清く正しくなければできないことなのです」(430)

第25講 最善観

「そもそもこの最善観という言葉は訳語でありまして、
西洋の言葉では、オプティミズムという言葉が
これに相当しましょう。

通例は、これを「楽天観」とか「楽天主義」と
訳するのが普通ですが、
哲学の方では、これを「最善観」というのが
普通になっています」(433)

「今この信念に立ちますと、
現在の自分にとって、
一見いかにためにならないように見える事柄が起こっても、
それは必ずや神が私にとって、
それを絶対に必要と思召されるが故に、
かくは与え給うたのであると信ずるのであります」(434)

「すなわち、いやしくもわが身の上に起こる事柄は、
そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、
またこの私にとっては、最善なはずだというのです。

それ故われわれは、それに対して一切これを拒まず、
一切これを却けず、
素直にその一切を受け入れて、
そこに隠されている神の意志を
読み取らねばならぬわけです」(434-435)

「人間は、順調ということは、
表面上からはいかにも結構なようですが、
実はそれだけ人間が、おめでたくなりつつあるわけです」(436)

第26講 二種の苦労人

「人が自分を内省して、
少しでも自分の真実の姿を
求めるようになるには、
まず道を知るということと、
次には苦労するという、この二つのことが
大切だと思うのです」(441)

「かくして人間は、
その人の生まれつき、
すなわち先天的な素質と、
道または教えと、
もう一つ人生の苦労というこの三つは、
人間のでき上がるうえに、
欠くべからざる三大要素と言えましょう」(442)

第27講 世の中は正直

「そもそも世の中が不公平であるというのは、
物事の上っつらだけを見て、
ことに短い期間のみを見ているためであって、
少しく長い眼で見るならば、
結局世の中は、
普通の人々の考えているよりも、
はるかに公平なものでしょう。

否、私自身の信念から申せば、
世の中ほど公平なものはないと
思うのです」(450)

第28講 平常心是道

「ちょっと申しておきますが、
これからしだいに冬に入りますが、
諸君はなるべく「寒い」という言葉を
使わないようにーー。

われわれ人間も、
この「暑い」「寒い」ということを
言わなくなったら、
おそらくそれだけでも、
まず同じ職域内では、
一流の人間になれると
言って良いでしょう」(453)

「さればこそ、
寒暑を気にしないということが、
やがては順境逆境が問題とならなくなるわけです」(455)

第29講 人生は妙味津々

「そこで人間は、
この世の中を愉快に過ごそうと思ったら、
なるべく人に喜ばれるように、
さらには人を喜ばすように
努力することです」(462)

「実際人間の偉さというものは、
ある意味では働くこと多くして、
しかもその受けるところが少ない所から
生まれてくるとも言えましょう」(463)

第30講 試験について

「かくして人が真に自分を鍛え上げるには、
現在自分の踏面している仕事に対して、
その仕事の価値いかんを問わず、
とにかく全力を挙げてこれにあたり、
一気にこれを仕上げるという態度が大切です。

そしてこの際肝要なことは、仕事のいかんは問題ではなくて、
これに対する自分の態度いかんという点です」(469)

第31講 真面目

「真面目ということの真の意味は、
自分の「真の面目」を発揮する
ということなんです」(472)

「真面目な態度とは、
これを試験について言えば、
まさに百二十点を目標として、
先生方が百点の人と区別をつけるのに、
困るくらいの意気込みでやることです(…)
そこで真面目とは、
その努力において、
常に「百二十点主義」に立つ
ということです」(474)

「いつも先方の要求や予想より、
二、三割方余分の努力をするつもりでいると、
第一気持ちが清々しくなるのです」(474-475)

「人間は、人生に対する
根本の覚悟さえ決まっていれば、
わずかな時間も利用できるようになるものです」(475-476)

「真の修養とは、何よりもまず人間が、
内面的に強くなることです。
他の一切のことは、すべてそれからのことです」(476)

第32講 教育と礼

「現実界のことは、
結局一人の力がすべてを興す基となり、
そのスタートとなるもののようです」(482)

第33講 敬について

「結局教師自身が、
尊敬する人格を持つということでしょう。
実際人々から尊敬されるような人は、
必ず自分より優れた人を尊敬しているものです」(486)

「尊敬するということは、
ただ懐手で眺めているということではなくて、
自分の全力を挙げて
相手の人に迫っていくことです。
地べたをはってにじり寄っていくように−−です。

つまり息もつけないような精神の内面的緊張です。
薄紙一重もその間に入れないところまで
迫っていく態度です」(487)

「実際人間というものは、
自分の生命力の弱い間は、
生命力の強い人にはなかなか近づけないものです」
(487)

「自分の位置を人と比較せぬがよし。
一切の悩みは比較より生ず」(488)

第34講 ねばり

「すなわち百人中
九十七、八人までが
投げ出すとき、
ただ一人ねばりぬく力こそ、
ついに最後の勝利を占める、
最も男性的な精神力と
言うてもよいでしょう」(493)

第35講 批評的態度というもの

「自分の持っている知識相互の間に
矛盾や衝突があっては、
全体を統一的に提(ひっさ)げる力は
とうてい出ようがないのです。(…)

つまり哲学という学問は、
自分の持っている一切の知識なり
経験なりの間に、
相互の連絡をつけて、
一つもバラバラなものとか、
矛盾し孤立するものの内容に、
全体的に統一する学問と言ってもよいのです」(495)

「ですから単に傍観的に眺めていないで、
自分の欲するものは、
全力を挙げてこれを取り入れるようにしてこそ、
初めて自己は太るのです。

そこでまた言い換えますと、
人間は批評的態度にとどまっている間は、
その人がまだ真に人生の苦労をしていない
何よりの証拠だとも言えましょう」(498)

「このような批評的、傍観的な態度を
脱するには、
人は何らかの意味で、
苦労をする必要があるようです。
そこでまた、真に人を教えるというには、
自ら自己の欠点を除き得た人、
あるいはむしろ常にわが欠点を
除去しようと努力しつつある人にして、
初めてできることでしょう」(499-500)

☆488ページの「比較」についての話と
対応している?